和田の歴史 ─和田はwattarだった!?─


 その昔「和田」は、江戸初期まで和田村と称していた。江戸初期に2村に分かれ、天文3年(1534)の検地では総石高413石8斗1升であった。天文5年(1536)には61石8斗余が並木和田として山角牛太郎の知行地となり、天正19年(1590)に和田村352石の内269石が山中新右衛門の知行地(私領地)、そして83石が御領地となった。寛永4年(1627)には私領地を上久和田(あげわだ)、御領地を本和田(もとわだ)と呼ぶようになる。承応2年(1653)、山中氏二代目の七左衛門が事件に巻き込まれて断絶すると、領地は没収されて幕府の直轄領となり、上久和田は上給和田と呼ばれるようになった。寛文3年(1663)、代官の高室四郎兵衛の知行の時には、上和田村と中和田村と呼ばれていた。その後、明治4年(1871)11月からは神奈川県に属することとなり、明治26年(1893)に東京府(現・東京都)に編入される。

 「和田」という地名の「ワダ」には、地形の湾曲している所(『大辞林』三省堂)という意味がある。実際、和田には上和田と中和田の間に東西に流れる大栗川(おおぐりがわ)がある。現在は両岸の改修工事がなされ、一級河川となっているが、改修以前は南北に大きく蛇行しながら流れていたので、まさしく地形の湾曲している所であった。

 また、全国の多くの地名はアイヌ語にルーツを求めることができ、多くはその地形などに由来していると言われる。知里真志保氏の『地名アイヌ語小事典』(北海道出版企画センター)によれば、「wattar」は、水が深くよどんでいる所すなわち淵という意味があり、「ワダ」という地名の語源であると考えられる。改修以前の大栗川は、子供が泳いだり飛び込んだり出来る程の深さがあったので、この淵という意味も当てはまる。