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 当山は和中山安養寺高蔵院と称し、京都・東山七条にある真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん)の末寺です。以前は東京・日野市の高幡山金剛寺(高幡不動尊)の末寺でした。当山の開山開基は詳らかではありませんが、境内から嘉暦4年(1329)の高さ40cm、幅19cmの板碑の一部(もとは高さ100 cm、幅30cm以上あったと推定されます)が発見されていることから、室町初期には草庵が営まれていたと考えられます。

 当山は、南北の山に鎮守を配したその中央に位置し、高台で西に霊峰富士を望み、多摩川の支流大栗川の水利にも恵まれた良き環境にあります。ここ和田の地は、周辺から縄文・古墳時代の遺跡・遺構が数多く発見され、太古より繁栄していました。



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 開山以来当山は、和中山安養寺と称していました。その昔、山門を出た右手の小高いところに釈迦堂が建っており、この釈迦堂の別当寺として早い時期から人々の信仰を集めていました。いつ頃か釈迦堂が無くなると、跡地は第五世祐賢和上代(〜寛保2年・1742)から墓地となりました。現在でもその下方を堂ノ下と呼んでいるのは、釈迦堂があった名残でしょう。文禄3年(1594)10月11日から15日に行われた検地の『縄打水帳』に、安養寺という記載が数ヶ所見られることから、周辺に相当な面積の寺領を有していたことがうかがえます。

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 天正19年(1591)11月6日には、山中新右衛門(北条氏の家臣で後に徳川家康に仕える)が、和田村の地頭となりました。新右衛門は当山の東隣に館を構え、当山を再興し、仏教の力を借りながら村民への政策に取り組んでいきました。さらに二代目の山中七左衛門は、幕府に朱印地の願い出をする際に院号を「高蔵院」とし、「和中山安養寺高蔵院」として慶安元年(1648)に寺領五石の朱印地を賜りました。以後、当山は「高蔵院」と号するようになりました。

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 高蔵院は延宝7年(1679)2月27日示寂の慶秀和上を中興開山第一世として以来、現住は第十六世です。本尊は大聖不動明王尊(7寸の座像)で、矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制多迦童子(せいたかどうじ)の両童子を従えています。仏の慈悲を表すという矜羯羅童子は、一般に合掌しているお姿が多いようですが、当山では蓮華を持しています。制多迦童子は仏の智慧を表すといい、金剛棒を持したお姿です。仏師や造顕年代は三尊共に不詳で、その他、胎蔵界大日如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像、普賢延命菩薩像を安置しております。



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 境内には、弘法大師像(巡行大師)、薬師如来像(多摩十三仏)、水子地蔵尊を安置しており、さらには聖徳太子、金毘羅大権現、福徳田中稲荷大明神が祀られています。山門の扁額は、元禄11年(1698)に当時の地頭・和田五助により寄進されたもので、往時を偲ばせます。

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 また当山は、江戸時代までは北側の山にある十二所大権現社(じゅうにそうだいごんげんしゃ・応永27年(1420)創建)、同じく南側の愛宕山にある愛宕権現社(天文年間(1532〜1555)創建)の別当寺を兼ねていました。愛宕権現社は和田村の民(講中)により守られていましたが、寛永10年(1633)から高蔵院の管理となり、愛宕山にあった地蔵堂、地蔵菩薩像、十王像は、高蔵院東下の池田(いけた)の地へと移されました。

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 その後、明治時代に入ると公立小学校の生蘭支校(本校は現在の八王子市立由木東小学校)が当山内に置かれ、和田の民の教育の拠点ともなりました。昭和55年(1980)5月には別格本山高幡山金剛寺貫主秋山祐雅大僧正により、真言宗の秘法であるお護摩が再興され、現在は和中不動尊として多くの人々の信仰を集めています。